偶合するという奇妙
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彼がその店を見つけたのは単なる偶然だった。
少なくとも、見つけようとして見つけたわけでは決してない。
彼の戸籍上での名は矢部淳一(やべ じゅんいち)といった。この世に生まれてから人生の半分以上の時間を過ごしている仮想空間上での名はヨハネ。仕事上付き合いのある人間はそのどちらの名でもなく、“走査屋”と彼を呼ぶのが常である。つまり使用頻度の高い彼の名前は、三つあることになる。その他使用したことのある名前ならば数千はあったが、それらをいちいち挙げる必要はないだろう。
とにかく、仮想空間の住人である彼がネット上で営業しているその店を見つけたのは、仕事とは関係のない、いわゆる散歩の時間に通りかかっただけの単なる偶然だった。現在仮想空間上にいくつの店が存在するか、正確な数は出せない。しかし現実に存在する店の数以上に、オンライン・ショップの数は多い。それは確実に言えることだった。その中には個人営業の店も少なくない。個人用のバーチャル・ショップ作成ツールも出回り、今では誰もが手軽に3Dを使って自分の店を展開していた。
走査屋はそれらの簡易ソフトを利用したショップには滅多に入らない。プログラムに無駄が多すぎて、美しくないからだ。走査屋が見ている世界が、人とは違うということを他人に説明するのは難しい。彼はインターネットと“接続”できる。そして電気信号で伝達される情報を特殊な形で“見る”ことができるのだ。それは一種の精神感応能力であり、彼には勿論人の精神も“見る”ことができる。ただ人の精神は電気信号の情報よりももっと複雑で、汚い。それを見続けることは、彼の体に大きな負担をかけることになる。
今から七年前、十歳の時に事故で両親を亡くし、自らも両足を不自由にしてから、彼は益々人を避け、仮想空間で日々を過ごすようになっている。しかしそれは仕事上なんら問題のないことであったし、彼の体には優しいことだった。姉がロンドンに住んでいたが、彼女は彼がきちんと高校に通っていると思っていたし、彼の仕事の内容については全く知らない。電子情報で全て報告がなされる現在、成績表だって簡単に偽造することができた。とにかく彼は自分の仕事に満足していたし、生活も充実していた。
仮想空間上を走り回って、気に入った店に――プログラムの美しい店だ――入っては時間を潰す。仕事も今のところ彼の手を煩わせるような難しい依頼は入ってこない。彼の興味をそそるような仕事も。
偶然見つけたその店は、他の多くと同じく3Dを使用して立体感を持たせた小さな店だった。個人経営の店で、「流華堂」――りゅうかどうと読むようだ――という名前の店だった。ベルの鳴るドアを抜けて中に入ると、そこには丸いクラシックなテーブルがひとつ。その上には一輪挿しに赤いリコリスの花が生けられていた。シンプルなプログラムだった。考えられないほどシンプルで、独創的なプログラムで書かれた店だった。テーブルの上の覗くと、店主と二人だけでできるチャットと、メールフォームの起動できるメニューが二つだけ並んだ。商品の情報はない。彼はとりあえずチャットに入った。彼がチャットに入ると、その十数秒後に店主が入ってきた。彼は電波の先を通して、コンピュータの前に座っている人間の精神にも感応できる能力を持っていた。「流華堂」の店主ルカは、彼の精神感応を最初から跳ね除けた。
そのルカとはもう一年以上の付き合いになる。お互いの仕事についても多少は理解するようになっていた。最初は花屋だろうか、と思ったルカの店は、喫茶店兼骨董品屋だった。骨董品の修理もしているという話を聞いて、彼は自分の所に舞い込んできた情報を、ルカに回すようになっていた。ネット上での性別や年齢はいくらでも誤魔化せる。いつもなら精神感応を使って相手の素性を探るが、ルカは彼の能力を一切受け付けなかったし、彼自身この能力を使って探るには惜しい相手だと思い始めていた。
ヨハネ > 貴方に是非会ってみたい
そう彼が切り出したのは、幼馴染で仕事仲間である祓い屋へ来た仕事を、ルカに回して無事に処理してもらった後のことだった。丁度ルカに見てもらいたいものを自宅から掘り出したこともあって、彼はある日ルカにそう持ちかけた。
ルカ > それでは是非お店にいらしてください。僕も貴方にお会いしてみたいです
彼の申し出に、ルカは間髪いれずにそうリターンした。ルカの方はどうか知らないが、彼が他人に興味を持つのは大変珍しいことだった。しかも自宅から出て、自ら出向いてまで人に会おうとすることは事故に遭ってから初めてのことかもしれなかった。
「……あぁ、今夜行くよ。…………大丈夫、子どもじゃあないんだから一人で行ける。……カレン、心配しすぎだよ…………。分かってる……。車椅子はちゃんと機械屋に調整してもらったって。……うん、ありがとう。君も気をつけて、カレン」
そう言って彼はヘッドフォンを外した。久しぶりの外出に、幼馴染の少女が心配するのは当然のことだった。それも流華堂の営業時間に合わせて夜中に行くというのだから。勿論彼も夜中街をうろつく危険性は十分に理解している。市警がいくら目を光らせても、夜の闇を纏って働く人々はその身を闇に溶け込ませる術を知っている。賢い市民は自衛を怠らないし、彼も愚かな市民の仲間入りだけは避けたかったのでしっかりと準備をして出かけた。
途中まではタクシーを使用した。自宅から流華堂まで車椅子で行けば、二時間を越えてしまう。往復することを考えると得策ではない。ただ行って帰ってくるだけの時間しか残らない。迎えに来たタクシーの運転手は、彼が車椅子を使用しているのを見て取ると微かに眉を寄せた。精神感応を行うまでもなく、その顔が面倒だと言っていた。彼はそれを無視して車椅子ごとタクシーに乗り込んだ。運転手は走り出してから数十分の間は、彼に声を掛けて愛敬を振りまいたが、彼がコミュニケーションを放棄していると分かるとそれ以降はむっつりと黙り込んだ。最後まで気付かないよりはマシだが、それにしても気付くのが遅すぎると彼は思った。
タクシーを降りて料金を払うと、彼は両腕で車輪を回して車椅子を走らせた。鼻の上に乗っているメタルフレームの眼鏡もそうだが、今両腕で車輪を回して走る車椅子など骨董品扱いだ。眼鏡はファッションの一部として使用され、視力の矯正のためには殆ど使用されなくなった。コンタクトが普及しているし、コンタクトが合わないのなら眼球自体を交換してしまえば良いのだ。車椅子にしても、今は手元のスティックで動く電動式が当たり前だ。今もあえて手動の車椅子を使うのは、スポーツ選手くらいなものだろう。
そのスポーツ選手とは正反対の生活を行っているような彼は、それでも淡々と流華堂に向かって車椅子を走らせていた。幸い坂はなく、彼は古い商店街の通りを進んだ。どの店もシャッターが降りており、昼間も営業しているのかさえ怪しい佇まいの店もあった。段々と道は狭くなり、数分後彼は右に曲がり、そしてすぐに左に曲がった。
突き当たりにようやく店の明かりが見えた。前面はガラス窓で、ベル付きの入口は深緑に塗られた木製の戸。その戸の右脇に「流華堂」と赤字で書かれた看板が立っていた。入口に段差がないことを確認して、彼はほっと息をついた。電動式車椅子と違って、彼の車椅子には段差を乗り越えるための機構はついていない。市内の殆どの店は新しく、車椅子などが入りやすいように段差はなくしているが、流華堂は古い店らしいということを聞いて心配していたのだ。ルカに聞いても良かったのだが、彼は初めて人と会うときいつもそうしているように、自分が車椅子を使用していることを事前に知らせていなかった。趣味が悪いと言われるかもしれないが、自分が車椅子であることを知った相手が初めにどのような反応を示すか、それを彼は今後の付き合いでもずっと忘れずにいるようにしている。
彼はゆっくりと店に近づいた。入口に段差はなかったが、残念なことに戸は引き戸ではなかった。手前に引くタイプの戸は車椅子では最も扱いづらい。彼は仕方なくノブに手を掛けて、一度引いてから車椅子を押し込もうと思った。
「あ、お開けします。すみません、古い店で」
手をドアノブに伸ばすと丁度背後から声がかかって、彼はぐいと首を後ろに向けた。まず目に飛び込んだのは松の枝。そして見事に咲いた桜の花だった。
「少々後ろに引いても宜しいですか?」
次には鼻に香の匂いが入り込む。外国製の香水の匂いではない。人を不快にさせることの決してない、仄かな甘い香りだった。その香りが消えぬ間に、車椅子が優しく後ろに引かれ、ガランという音を立てて緑の戸が開いた。そして今度はゆっくりと車椅子を押され、彼は店の中へ入っていった。正面から左側に掛けて、喫茶用のカウンターが延びていた。カウンターの奥には品良くティーカップとソーサーが飾られている。右側には左側のそれよりも低いカウンターが伸びており、その奥は照明が落とされていてよく見えなかった。カウンターの前には二階へ上がる螺旋階段があり、さらに手前には木目を生かした艶のあるグランドピアノが置かれていた。
外から見えたガラス窓は出窓で、そこに車椅子を押してくれた人が松の枝を置いていた。紅紫(こうし)の地に白い桜の花が散る。背は金の帯が美しく飾り、その上に伸びているのは白い項。短い髪はそれでも美しく上にまとめられ、柄と同じく桜の花を飾った簪が刺さっている。彼はようやく思い出した。そこから控え目に香るのは、伽羅の香りだ。長い袖が翻り、その伽羅の香りが波のように増して、引いた。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
喫茶用のカウンターは高すぎたし、窓側に置かれているテーブルと椅子は動かせるものではない。振袖を着た人が案内したのはグランドピアノの背後、出窓の前だった。木製の丸テーブルが置かれ、彼はその端に車椅子を止めた。するとテーブルの脇に着物姿の店員が立って言った。
「夕食はお済ですか?」
「いや、でも食事はいらない。飲み物をもらえるかな」
彼はすぐにそう答えた。その間に店員の顔をさらりと眺める。細い輪郭。唇は艶のある桃色で、肌は人形のように白かった。長い睫が大きめの瞳を飾っている。化粧はしていないようだったが、顔では男か女か判別できなかった。
「はい。紅茶とコーヒーがございますが、どちらになさいますか?」
「コーヒーを、ブラックで」
声は低いが、女でもこのくらい低い声の持ち主はいる。
「はい。それでは少々お待ち下さい」
ただの店員か、それとも店主なのか判断できなかった。何しろチャットでの会話でイメージしていたルカの像と違いすぎる。
「ちょっと待って。その前に」
能力は使わないと決めたのだから仕方なかった。彼は立ち去ろうとする着物の人を呼び止めた。すると呼び止められた方は不思議そうに首を傾げる。その仕草がまた性別と年齢を分からなくさせる。
「君がルカなのか?」
彼が尋ねると、相手は目を丸くして、次には満面に笑みを浮かべた。
「はい、ヨハネ。今、お飲み物をお持ちしますから……。今日はゆっくりお話できますよね?」
ルカだと認めた店員は子どものように幼い顔で笑うと、カウンターへ向かった。どうにも調子が狂う、と彼は思った。チャットで会話した印象では、ルカはもっと理知的でミステリアスだった。彼の精神感応を跳ね除けるような強さがあり、それが体から感じ取れるような人だと思っていたのに。
「……あぁ、そう願いたいね」
正直、ここまで出向くこともなかったかもしれないと彼は思い始めていた。精神感応が効かなかったのは、単に彼の調子が悪かっただけの問題なのかもしれない。
やがて二人分のコーヒーを淹れて、ルカがテーブルに戻ってきた。着物の袖を押さえながら、彼の前にカップを置く。そしてその反対に自分用のカップを置くと、彼の向かいに座った。車椅子の彼に合わせても、相手と視線が同じ。そしてテーブルの高さも適当である、ということはルカが座っている椅子は普通のものよりも随分低いものらしい。
「初めまして、と言うべきかな、ルカ。僕のことはヨハネでも走査屋でも、好きなように呼んでくれて構わない」
彼は本名を名乗ることだけは避けた。この業界では当然のことだ。声に抑揚はない。冷たく聞こえたかもしれないが構わない。期待と違った出会いに、彼の気持ちは早々に帰宅することを考え始めていた。
「初めまして、ヨハネ。柳 流華(やなぎ るか)です。流華堂にようこそ」
彼が本名を名乗ることを避けたのに対して、ルカはいとも簡単に自分の名前を告げてみせた。そして椅子に座った状態で、両膝に手をつくと美しくお辞儀した。彼の冷たい声にも全く動じていない様子だ。そういえばルカは、彼の体を見ても日常のごく自然な反応しか返さなかった。
「本名なのか。てっきり僕のハンドルネームに合わせただけかと思っていたよ。ところで、君の性別を教えてくれないか。性別で何かを判断するつもりはないが、どちらとも区別できないというのは僕が気持ち悪い」
これは初対面の相手に対して随分失礼な物言いだっただろう。ネット上に存在するヨハネはもう少し礼儀をわきまえている。相手が動揺した隙を狙って能力を使うつもりだったが、相手はそれにも全く動揺せず、ただ困ったように笑った。
「男です。普段はちゃんと判別が付くくらいの着物を着ていますけど、今日は走査屋さんがいらっしゃる前に壊し屋さんに遊ばれてしまいまして。振袖なんてお客様がみえるので着ないと言ったのですが、折角の贈り物だから着てくれと言われてつい……」
流華はそう言って仕方なさそうにほお、と溜息をついた。相手を動揺させるつもりが、思わず彼の方が動揺してしまった。今、流華は“壊し屋”と言っただろうか。
「君、破壊屋と知り合いなのか?」
失い始めていた流華に対しての興味が、俄然増してきた。彼は身を乗り出さんばかりにして、流華に問いかける。流華は頬に指を添えて、小さな顔を傾げた。
「破壊屋? あぁ、皆さんはそう呼んでいらっしゃるのですか。確かに当たらずとも遠からず、ですね」
念のため流華の言う“壊し屋”と彼や仕事仲間の言う“破壊屋”が同一人物か確認する。容姿、年齢からしてまず間違いないだろう。しかし彼の知っている“破壊屋”は男に振袖を贈るような人物ではなかった。破壊屋は彼と同じく、他人に興味を持たない男だ。ターゲットに接近するためならお愛想笑いも、贈り物もするだろうが流華がターゲットとは思えない。知り合ってから半年は経っていると言うのだから。余程の大企業に絡まない限り、破壊屋が半年も仕事を伸ばすことはないだろう。
「破壊屋が、君のために買ったものなのか? その振袖は」
「そう思います。どこかから盗んだものでなければ」
盗むよりは買う方がリスクは少なそうだ。破壊屋にとっては気にならない程度の微妙な差かもしれないが。
「君は女装癖がある?」
「そうかもしれません。着物は柄が美しいので、女物が好きです。あ、不快でしたら着替えて来ますのでおっしゃってください。洋服も持っていますから。勿論、男物です」
その提案で、彼は改めて流華の上半身を眺めた。最初から特に見苦しいとは思っていなかった。朴念仁の彼から見ても、むしろ美しいと言えるだろう。
「いや、いいよ。似合っている」
そう答えて、彼はようやく出されたコーヒーに口をつけることができた。流華は彼がカップを置くのを待ってから、邪気のない顔で微笑んだ。
「ありがとうございます」